なかでも、十勝岳山頂北西側のグラウンド火口内では、過去150年の間に、安政4年(1857年)、明治20~21年(1887~88年)、大正15~昭和 3年(1926~28年)、昭和37年(1962年)および昭和63~平成元年(1988~89年)の5回の顕著な噴火記録があります。
大正15年(1926年)の噴火では、主に融雪型泥流により144名が、また、昭和37年(1962年)の噴火では、火山岩塊の落下で5名が死亡しており、特に火山噴火防災対策を必要とする火山です。
大正15年(1926年)〜昭和3年(1928年)の噴火
明治20年(1887年)の噴火後、30数年間やや静穏であった十勝岳は、大正12年ごろから再び噴気活動がはげしくなり、大正15年(1926年)〜 昭和3年(1928年)の活動期に入った。1926年5月24日12時11分、1回目の爆発がおこり、泥流が畠山温泉(現在の白金温泉)をおそい、ついで 同日16時17分すぎ、2回目の大きな爆発がおこった。この爆発で中央火口丘の北西部が破壊され、崩壊物は北西斜面をなだれのように流下して、硫黄鉱山元 山事務所をおそい、さらに急速に積雪をとかして二次泥流を生じ、美瑛川と富良野川に分かれて流下し、爆発後わずか25〜26分で火口から25キロメートル の上富良野原野に達した。
この噴火で死者行方不明144名、建物372棟、家畜68頭、602羽が失われたが、これらの被害は主として二次泥流によるものであった。この爆発のあと、中央火口丘には、北西に開く馬蹄形の大きな爆裂火口が残された。泥流のほかに、旧岩屑10,000立方メートル、新火山弾3,000立方メートルが火口の周辺に放出された。新火山弾は、泥流発生の直後に放出されたもので、暗黒色多孔質のカンラン石含有紫蘇輝石 普通安山岩であった。一方、細粒の火山灰は、火口から北方(やや東より)へ降灰した。
1926年5月24日の噴火後、活動はおさまり、 約3ヶ月半の休止期を経て、同年9月8日16時33分、再び爆発がおこり、火口付近で2名が行方不明となった。さらに、9日〜21日まで小噴火がくりかえ された。この9月の噴火で、中央火口の北西側に開かれた馬蹄形状の崩壊部に、楕円形の火口が作られた。この火口は「大正火口」または「新噴火口」と呼ばれ た。1926年の噴火は、その後次第におとろえ、1928年12月4日の活動を最後として、永い休止期に入った。
第2回目の爆発に伴っておこった泥流が、その規模・流速において極めて大きく、災害の大部分はこの泥流れによるものであった。崩壊物は、中央火口丘の山体の北西部が爆発により崩壊し、火口から幅250メートル、距離1,000メートルの斜面に堆積した。この堆積物は、硫気変質をうけた岩塊を多量に含む砕屑堆積物で、堆積後しばらくその表面から無数の二次噴気活動が続けられた。
崩壊物は積雪に達して急速に雪を融かし、第一次の泥流を形成した。第一次泥流は崩壊物の堆積から漸移し、さらに下流約1,500メートルの間に堆積、末端は1,000メートル以上の幅に拡がっていた。この堆積物は、岩塊、火山灰、硫黄などの混合物で、雪融けの水で膠質状態となり、表面は黒色荒蕉地をなしていた。第一次泥流の先端は5メートル内外の低い階段となり、第二次泥流に続いている。
第二次泥流は、これから下流にかけて発達している。第一次泥流の位置で多量の積雪から生じた水は、泥流の物理的性質に変化を与え、崩壊物の一部を第一次泥流堆積物として置き去り、他の一部を伴って極めて流動性の高い第二次泥流となった。この泥流は緩やかな傾斜地を流れ、下流に行くにしたがって、扇状(最大幅2.5キロメートル)に拡がった。泥流が流れる際、幾多の支流が離合した結果、狭長な森林帯が泥流の暴威から免れている。
富良野川に入った泥流は、谷を充して流れ、上富良野の低地に氾濫し、家屋230棟を流失し、100棟を破壊、死者110名、負傷者209名の大惨事となった。低地に沈滞した泥流は、泥水状態で水深1メートル以上に達し、多量の木材を運んできた。また、美瑛川の広い谷に入った泥流は、一部は美瑛川の流路に沿い、一部は谷底の高い西側に沿って流れ、中央には灌木林を残したが下流では耕地上に氾濫した。堆積した泥土は15センチメートル以下であった。泥流は美瑛市街近くで終わっている。
すべての泥流の通過した跡は約29キロメートルに達し、上富良野地および美瑛の耕地に堆積した泥土、木材などの容積は概ね3,000,000立方メートルに達した。
昭和37年(1962年)の噴火
大正15年(1926年)5月の爆発に始まった十勝岳の活動は、昭和3年(1928年)12月の小爆発を最後に休止期に入る。しかし、33年あまりの休止期を経て、昭和37年(1962年)6月29日夜半、再び噴火を始めた。
この噴火に先立ち、昭和27年(1952年)ごろから噴気運動が活発化し、噴気の量と温度が上昇し、火山ガス中のハロゲン・硫化水素・二酸化イオウなどの 増加が認められ、新しい噴気孔も発生した。また、昭和30年(1955年)ごろから大正火口内では、硫黄採取が行われ、この生産量が次第に増加した。
その後火山性地震が観測されるようになり、後に有感地震が発生し、火口周辺に亀裂・落石などが見られた。また、硫黄の自然発火も見られた。そして、6月 29日22時すぎ、ついに噴火が始まった。大正火口の西北西3キロメートルの吹上温泉付近では、22時15分ころ、大正火口の方から白煙が昇りはじめ、同 45分になって大きな爆発音とともに強い上下動を感じ、稲妻が見られた。ついで黒い噴煙が上昇し、稲妻が見られた。この噴火は22時55分、一時静穏に復した。
一方、大正火口近くの宿舎に泊まっていた硫黄鉱山の鉱員は、屋根をつき破る火山岩塊ではじめて爆発に気づき、岩塊のために鉱員5名が死亡し、残る11名(うち2名は気象庁技官)が負傷した。この爆発は、火口付近の既存の岩石が水蒸気爆発で吹き飛ばされたものである。
その3時間後の30日2時45分、2回目の噴火が始まった。今度は前回よりはるかに大きく、連続した遠雷のような音を発し、約70〜80メートル、高さ 500メートルの火柱が垂直に上がり、稲妻が閃き、噴煙が高く上昇した。間もなく鉱山宿舎が燃え上がった。明らかに苦鉄質マグマが砕屑物となって激しく噴出したのであった。
噴煙は、ほぼ垂直に上昇して原子雲状にやや広がり、その頂部は海抜12,000メートルの高さに達し、急速に東方に流された。火山灰の雲に覆われ、日照がさえぎられ、降灰に見舞われた。降灰は遠く中部千島方面に及び、降灰地は農作物はもちろん火山ガスによる空気汚染もひどく、人畜にも被害を与えた。
この激しい噴火は、30日正午すぎからやや衰えをみせたものの、7月5日までは続き、6日夕刻、雲が切 れたときすでに一時休止状態に入っており、白煙の上昇が見られた。その後活動は一段と衰え、弱い噴火が8月末まで時折発生した。しかし、その後も火口から 濃厚な黄色の火山ガスが噴出し続け、しばしば気象条件の悪い日には山腹を這いくだり、山麓の住民を悩ませた。
そしてこの噴火は、大正火口の南側、グラウンド火口西南の内壁に沿って発生した。この内壁に沿い、北西から東南に向かい62-0、-1、-2、-3と火口が開かれ、さらに東南方に亀裂が入った。62-0、-1火口は小さく初期に活動を終え、62-2火口が最も大きく成長し、新噴石丘が形成された。
一方、大正火口は、火口壁の崩落と新噴出物により、かなり埋積された。噴出物は、1926年火山弾に極めて類似したカンラン石含有紫蘇輝石安山岩の火山弾・スコリア・火 山灰からなり、約10パーセント程度の既存山体の砕屑物(類質噴出物)を含んでいた。その総量は4.8〜7.0×10の7乗立方メートルで、大部分は細粒の砕屑物となって東側に降灰した。
なお、この爆発による物件の被害は、シュナイダーハウス(ブロック造登山休憩所66平方メートル)・鉱山事務所および宿舎(115.5平方メートル)の圧壊が各120万円、事務所の付属物件1,904万余円、合計2,144万円の巨額に達した。
昭和63年(1988年)〜平成元年(1989年)の噴火
1983年頃より噴気活動が活発化し始め、1985年6月、62火口付近で有毒ガスが発生。1987年には火山性微動がしばしば観測されていた。そして、1988年9月以降、火山性地震は増加の一途を辿り、収束する様子は一向に見られず、12月に入ると火山性微動も連日のように観測され、16日午前5 時24分、ついに十勝岳が小噴火(水蒸気爆発・降灰)した。1962年以来、26年ぶりの噴火であった。
その2日後の18日にも小噴火が発生、翌日19日午後9時48分頃、火砕サージを伴う本格的な噴火が発生した。この本格的な噴火により、町は泥流危険区域である白金・美沢両地区の住民など234人に対して、避難準備を指示、直ちに職員4名を現地(白金温泉)に派遣した。また全職員を招集し、午後11時50分、職員93名の他、消防5名、警察91名体制による「美瑛町十勝岳火山噴火災害対策本部」を設置、泥流への警戒のため、十分な監視と観測強化を図ることに重点が置かれた。
12月24日、自衛隊の応援を受け、上富良野町と共同でワイヤーセンサーによる泥流監視装置を設置。標高1,350m付近、活動中の火口の直下、しかも深雪のなかで、決死の作業が行われ、2日後の26日、設置を完了した。しかし、この作業と期を同じくして、24日午後10時12分、十勝岳は本格的な噴火を起こす。爆発に伴い火砕サージが発生。先端が雪を融解し、最も恐れていた泥流が小規模であるが発生したと報じられた。
12月25日、前日の噴火から約2時間半も立たぬ間に爆発的な噴火を引き起こし、再び火砕流が発生、灼熱した岩塊が花火のようにさく裂しながら、望岳台方面に流れ出し、中腹の避難小屋にあと100mまで迫った。(この火砕流は当初、泥流と発表されたが、後の観測により火砕流と訂正された)。
12月24日の噴火で、町は白金地区に避難命令を発令。対象は、住民、宿泊客、ホテルや旅館の従業員ら176名で、待機中の町スクールバスや各ホテルのバスなどに分乗し、25分程で国立大雪青年の家に避難を完了した。
翌25日の噴火で火山噴火予知連絡会が、今回の一連の噴火が、大正15年と昭和37年の噴火とまったく同じように、最初に水蒸気爆発があり、その後次第に マグマ性噴火に移行する、という十勝岳の噴火形式をとっていることに注目し、この噴火活動が今後も続いていくだろうとの結論に至ったことを受け、避難者で ある白金地区住民との話し合いを行い、避難命令は当分の間、解除しない考えを示した。後に、白金地区住民27名にとって、避難命令解除まで127日間にわ たる避難生活を余儀なくされることとなる。
翌年1月に入ってからも、火山活動は沈静化の兆しは見えず、1日、8日と噴火を繰り返す。町も避難者との間で避難解除などについて話し合いを行ってきたが、情報提供が遅れたことや、長期間にわたる不自由な避難生活に加え、十勝岳がいつ噴火するか わからない不安な気持ちから精神的な疲労が重なり、健康面の心配も大きくなってきていた。
1月16日午後6時55分噴火、3分後、泥流 監視装置のワイヤーが切れたことを知らせるブザーが鳴った。午後7時10分、町対策本部は、美沢地区93戸530人に防災無線を通じて避難準備を、市街地 には警戒注意を伝えたが、その後下方のセンサーが作動しなかったことから、泥流が発生したとしても、山頂付近で止まっていると判断し、午後9時30分、解除した。その後も、20日、22日、27日と噴火、2月に入り1日夕方、4日、6日、7日、8日と噴火。この時点で、昨年12月16日の噴火から数えて20回にも達していた。
3月に入ってからも、町は当面避難命令を解除しない意向を伝えたが、避難住民からは避難命令の早期解除について 切迫した声が相次ぐようになった。4月に入ると、十勝岳は小康状態を保ち、監視装置の充実や緊急避難場所の整備も進んでいた。町は融雪泥流発生の危険を少 しでも減らそうと十勝岳山腹の斜面に融雪剤を散布した。
また、白金地区住民と白金温泉観光組合は共同で独自の避難訓練を実施するとともに、避難命令の早期解除に向けての要望もさらに強いものとなっていた。こうした住民等の強い要望を受け、町は28日、白金地区において避難訓練を実施し、避難場所、避難経路の周知および避難体制を強化したうえで、避難命令を5月1日解除することを決定した。